日本のメディアの原発報道をどう評価するか

2011年7月22日

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 まず武田氏は、それぞれのメディアが真実を伝えるという使命を果たそうとしていたことに敬意を評しつつも、「原発報道独特の難しさがあり、防護服が着用しなければならないなど、マスメディアは自前の取材はできる状況ではない」と指摘。政府や東電の発表を解説するところからはじめざるを得なかったという意味で、マスメディアの限界が明らかになったと述べる一方で、ネットメディアにも正確さなどの課題があり、「それぞれに弱さが見えてきた」としました。
 また、政府やメディアによる報道がスピーディになされなかったことについても、「知識の不足によって伝えられなかった場合もあるが、知識があっても発表することの被害を判断したという場合もあるだろう」と述べ、単純化して判断することの危険性を強く訴えました。

 そして、代表工藤が「今回の放射能汚染で、これまで安心していたものが全部不安になり、暫定値を出してもそれ自体を信じることができない不安な状況になってしまった。メディアはこうした不確実なものをどう評価し、どう報道するべきなのか」と問題提起すると、武田氏は、「もう少し冷静になって科学的なアプローチをする余地はある」とした上で、「それでも、どうしてもわからない領域は残る」と指摘。情報の受け手側としては、発言者の立場と紐付けすることによってその言説に対する評価を変えていくといった小さなことを積み重ね、それぞれが自らのリテラシーを上げる努力が必要ではないかとしました。
 一方で、「危ないか/危なくないかといったその場その場の報道で、「グレーゾーン」の正しさを競うのではなくて、その先にある現実をどうケアできるかということに重点化して伝えるべきではないか」と述べ、流れの中で報道することの必要性を語りました。

 さらに、日本の原子力政策の歴史の中で初めて「脱原発」ということが現実的なアジェンダとして出てきたことについては、「日本の原子力政策に句読点を打つことは必要」とする一方で、「「脱原発」を本当に実現したいのであれば、その目的を実現するための手段を明確に議論しなければならない。そのための時間が必要であり、単純な二項対立に陥ってはいけない」と強調しました。
 また、「これまで原子力というものに対して問題意識を持っていなかったが、原発がある国に生きている者としては、もう少し原発とはどういうものか、その技術的な文脈に自覚的でなければならないと思う」と述べて受け手側としての市民の側の変化に触れると同時に、伝える側についても、「本当に伝えるべきことがあれば、伝えるために自らが動いていかなければならない」と述べ、そうした気概を持つライターが増えるべきだとしました。

 最後に代表工藤は、「メディアも変化が問われているが、一方で受ける市民の側の変化も重要。そこに緊張感が生まれるかどうか、日本の社会が問われている局面だと思う」と述べ、対談を締めくくりました。

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第1話 日本のメディアの原発報道をどう評価するか

工藤:こんばんは。言論NPO代表の工藤泰志です。さて、言論NPOでは、3月11日の東日本大震災以降、「言論スタジオ」と題して、様々な議論を行っています。今夜は、少し形式を変えて、対談方式で「原発報道とメディアの役割」ということについて、議論したいと思います。ゲストは、ジャーナリストで大学でもメディア社会学を教えていらっしゃる武田徹さんです。武田さん、今日はよろしくお願いします。

武田:よろしくお願いします



工藤:実は、「原発報道とメディア」というのは、武田さんが6月初めに出された著書のタイトルでもあります。ただ、私自身も非常に関心のあるテーマで、ぜひ対談を、ということで、今日の対談が実現しました。原発の存在について、これまで意識的にその存在を、考えないようにしてきたのか、忘れているような状況だったのですが、3.11を境に、危険な存在であるということを改めて思い知らされました。原発を巡った報道というのが、膨大な量で色々な形で出されて、私も戸惑うことがかなりあったのですが、多分、こういう報道を契機に、私たちが考えなければいけない問題について、改めて考える機会になったのではないかという風に思っているわけです。

そういう点で、原発報道を通じたメディアの役割というところまで、今日は話を進めていければと思っております。

さて、早速、武田さんにお聞きしたいのですが、この震災、原発事故以降、報道はきちんと真実を伝える努力がなされていたのか、あるいはしていたのか、その辺りについてどう総括されていますか。


真実は伝える努力はしたが、適わなかった

武田:そういう文脈で言うと、真実を伝える努力をしたけどかなわなかった、という言い方が一番いいのではないかと思います。その場合の報道というのは、マスメディア報道もそうだし、ネットメディアもそうだったのではないかと思っています。

工藤:それは、どうしてですか。もう少し詳しく教えてください。

武田:それぞれに、自分の手の届く範囲で事実を確認しようとした。ネット上ではマスメディアは情報を隠蔽しているとか、色々と言われていますが、そういうことがもしあるのだとしたら、今後出てくるかもしれないとも私は思っています。それは、検証を待ちたいと思っていますが、その話を置いておいて、マスメディアの中にも、ちゃんと取材をしている人が間違いなくいて、その人たちは真実を伝えようとして、努力をしていたと思っています。ただ、原子力関係の報道には、独特の難しさというものがあって、やはりあのような事故になってしまうと、サイトの中は防護服がなければ近づけないような状況です。実際に、マスメディアが自前の取材ができたかというと、それはできないわけです。

それで、東電や政府なりの発表からそれを解説するというところから、報道を始めざるを得なかった。それは、マスメディアの限界であって、そのレベルの中で真実を求めようとしても、やはり届く範囲、リーチできる範囲には限界があります。そういう問題が、マスメディア側にはあったと思います。

一方で、ネットメディア側というのは、自前の取材力があったかというと、ガイガーカウンター等を持つ人は増えてゆきましたけれど、正確に使えていたかどうかとか、あるいは、ガイガーカウンターの数値の意味をどういう風に解釈するかとか、そういうことは、かなり難しいレベルの話でありまして、そういうところまで含めて、うまくいったかというと、まだまだだったと思います。もちろん努力はされているし、凄く誠実に作業されたことに対しては、私は本当に敬意を持っていますが、マスメディアも、ネットメディアを通じて発信する市民ジャーナリストも、それぞれに弱さみたいなものが見えてきたというのが、現状ではないかなと思っています。

工藤:確かに、メディア報道を見ると、記者会見をベースにしてやらざるを得ない状況があったのですが、政府なり東電を含めて、発表の仕方そのものが後手に回ってしまった。当日、ある程度の状況証拠から、専門家から見れば、こういう事になっているのではないかとの観測はできたのですが、数ヶ月ぐらい経ってから、初日から燃料棒が露出して、炉心溶融が起こっていて、下に落ちて「メルトダウン」しているという、かなり大変な事態が、「後から分かった」という状況になりました。


「メルトダウン」の言葉はなぜ後から使われたか。

武田:その辺について、私は、単純化しないほうがいいと思っています。私は、震災当日海外にいました。情報的にはかなり制限されていましたが、海外にいてアクセスできる情報の中で、冷却水を失って、かなりの時間、空焚きの状態であったと聞いたときに、崩壊熱の熱量を考えれば、おそらく燃料棒はもうそれまでのかたちをなしていないだろう、ということは分かりましたよね。それは、ある程度、原子力発電のメカニズムを知っている人であれば、間違いなく想像できたレベルの話だと思っています。ですので、「後からわかった」というのは、ちょっと微妙な言い方だなと思っています。しかし、それを「メルトダウン」と言わなかったのは間違いなくて、そこに関しての議論は必要だと思うのですが、ここもやはり、隠した云々とは違う視点で議論も必要だと思っています。

要するに、「メルトダウン」という言葉が、ある種、強く刺激する言葉であるが故に、使えなかったというか、使いにくかったということは間違いなくあると思います。だからといって、使わなくていいのかということは、また別の問題です。ただ一般論として考えたときに、その言葉が使いにくかったことは間違いなくあって、もしかしたら、そのことを考えたという可能性も無いわけではないと思います。そんな可能性がある以上、何で使えなかったか、ということを考えるべきだと思っていて、例えば、東京の浄水場で、放射線量が発見されたときに、大人が飲料するには、ほとんど問題がない状況だったにもかかわらず、ペットボトルを、あんなにも買い占めるわけですよね。そういうような国民が背景にいるときに、「メルトダウン」という言葉を使えたか、という風に思うと、もし使っていたら、私は、都市機能が崩壊するようなかなりのパニックになったのではないか、と思っています。

もし、そういう風に想像できた時に、その言葉を使うか使わないかということについて、報道する側はかなり責任感を持って選ばなければいけないことだと思うので、もしその辺りの判断をしたのだとすれば、単に遅らせただけではないようなニュアンスがあったのかもしれません。ただ、それについては、ちゃんと検証するべきだと思っています。

工藤:今の話は、メディアが自覚的に報道しているのであれば成り立つのだけど、知らないかもしれませんよね。

武田:私は、単純化が一番危険だと思っていて、メディアの方もさっき言ったように、崩壊熱がどれぐらいかということについて、分かっている人がどれぐらいいたか、ということは、まず問題としてあります。原子力の知識を持っている記者が、どれぐらいの数、今の報道機関の中にいたか。報道で原子力の知識が必要とされたのは、ある意味で、東海村の臨界事故が最後の出番だったわけでありまして、それから10年以上経っているわけですから、おそらく現場で動く人の中には、放射線に関する知識を必要に応じて、仕入れてきたような経験がない人が多かったのではないかと思っています。だとすれば、そこの問題点があって、もしかしたら知識の不足によって、伝えられなかったということはあります。その可能性はもちろんあります。一方で、知っている人がいた時に、彼らがわかっていたけど表現で配慮したという、そういう仮説を立てられないわけではないので、その辺りは、メディアの現場の知識量がどうだったか、それは個々のメディアによって問われるべきであって、マスメディア全体という風に大きく括ってしまうと、見えるものも見えなくなってしまうと思います。


政府説明に対する「作為責任」と「無作為責任」

工藤:その話の以前に、政府がその状況をきちんと判断していたのか、ということもありますよね。それが無かったら、全然、何もわからない状況で慌ててしまうことになります。

武田:おっしゃる通りだと認めた上で、あえて分析的に話してみると、何か情報を提供する場合には、作為責任が問われる場合と、不作為責任が問われる場合というのがあって、たとえば危険を報道することの作為によって、何らかのある種の報道被害的なものが出てくる、あるいは、政府の場合も、発表することによって、その発表によって被害が生じる場合、作為責任が問われる場合がありますよね。一方で、報道しない、発表しないことによる不作為責任が問われる場合があります。わかっていたのに伝えなかっただろうと。

工藤:日本からの待避を伝えたフランスが作為ですね。

武田:フランスと日本の場合は、ある種、向き合った関係になると思います。でたとえばその生活から離れるということは、ある種のリスク源になる可能性があるので、危険を伝えて避難を求めことにはる作為責任が重く問われる。危険だと言ってしまうことによって、逃げてしまって、今の生活ができなくなってしまうという問題がありますよね。

工藤:ありますよね。だから、本来、政策決定の人たちは、そういうことも判断して、その場合は、統治とかガバナンスがかなり効いているということが前提ですよね。

武田:前提ですよね。でも、その前提がどうかはわかりませんよね、それは。

工藤:分からない可能性が強いような気がしています。そうなってくると、それがかなり不安を煽って、メディア報道もそこに引きずられてしまうという問題もありますよね。

武田:ただ、分からないところからしか始めざるを得ないところがあって、確定的ではないのですね。そこが、少しやっかいかな、と思っています。

工藤:後から本質的な議論に入るので、まず、周辺の話をもう少し伺いたいのですが、最終的にメルトダウンが起こって、燃料棒が下に落ちていっているという状況がありました。あの時に、ひょっとしたら水蒸気爆発となる危険性があった。それこそ今だから、言える、という話かもしれませんが、そうだとすれば。よく、大丈夫だったなと。


震災当日のリスクをメディアは理解していたか

武田:可能性はあったと思いますよ。ただ、炉の温度については、センサーは始めの頃はかなり生きていたので、それを見る限りは、水蒸気爆発までゆくかな、という感じはしました。もちろん、ゼロではないと思いましたが、炉の中の圧とか、温度を見ている限りは、何とかなるかな、という期待をしながら、私は見ていました。もちろん、そこでも、非常に大きなリスクがあることは認めていましたし、そのリスクが現実化する可能性もあるとは思っていましたが、その先は、さきほどの作為責任、不作為責任みたいな話になると思います。私、大学で教えていたりしますので、一番近くにいて、守らなければいけない立場の人のことを考えたときに、たとえば東京の自分の学生のことを考えますよね。もう逃げろというべきか、もう少し様子を見ろというべきか。炉の温度とか圧を見たときには、私は、今の段階ならまだ大丈夫だという風にあえて言いました。それは、確定的な事実を言っているつもりはなかったです。ただ、そういう風に言う方に賭けるというか、その時点でどちらを言うにしても、賭けだと思うのですね。でも、その賭けが当たったときにどうか、はずれたときにどうか、という風に考えた上で、賭けているというレベルの話ですよね。

工藤:そこで、さっきの作為か不作為か。フランスはメールを流して、国外に出たらどうとか、80キロ圏は離れろ、とかいう議論がありました。だから、これについては、まだまだ解明しなければいけない問題があるけど。

武田:そうですね。遡って議論しなければいけないと思います。

工藤:ただ、今回は、かなり危うい判断が問われる局面だったわけですよね。

武田:臨界爆発に関しては...
工藤:それは間違いだということですよね。

武田:これは可能性はゼロではなかったと思いますが、水蒸気爆発の危険よりもかなり少ないと思います。で、何でその話が出ないのか、というところはよくわからないのですが、軽水炉の燃料の濃縮率で言えば、臨界はしにくいというのが、ある種物理的な法則性にありますから、確率的には低いことは間違いありません。では炉の構造が壊れたときにどうなるのかというのは、大抵は壊れれば、安全側に振れるのですが、壊れたときに、むしろ危険な状況が瞬間的にできて、臨界する場合もありますから、可能性としてはもちろんゼロではありません。ただ、新聞や夕刊紙などで書かれていたのは、ちょっとリスクを多く見積もり過ぎている感じはしました。ちょっと、ためにする報道のような気がしました。それに臨界ということが全然わかっていない原子力に関する知識がないにもかかわらず、臨界ということを書くのはなぜ、みたいなところは気になりました。本人達が、臨界のメカニズムを分かっているわけではないのに、こんなに大きな見出しで書くというのは、ちょっと無責任かなという気はしました。そこは、私は嫌でしたね。

工藤:それはそうですよね。メディア報道で、放射能がやってくるとかね、防護マスクを表紙に使った「アエラ」もあります。ああいうのも、違和感を感じます。

武田:でも、実は間違ってはいなかったというか、そこが厄介なのですが。ですから、この問題は、凄く難しいのですね。後で話がでるかもしれませんが、放射線だけを考えれば、人工的な放射線は当たらない方がいいのですよ。そこだけ考えられれば間違いはないのだけど、人間の周りにあるリスクというのは放射線だけではないので、その時にどう考えるかという話ですよね。

工藤:そこはまた、難しい問題がありますね。ここで、一度休憩を挟んで、次に続けたいと思います。

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第2話 社会全体の「不安モード」をどう切り替えるか

工藤:それでは、引き続き議論を進めていきたいと思います。原発問題の影響についてなのですが、僕が一番気になるのは、今回の放射能汚染で、今まで何となく安心だと思っていたものが、全部不安に変わってしまった。となると、暫定値を出しても、全部どうなのかということを考えないと、安心して食べられない。今の雰囲気は、そういう風な不安な状況になってしまっているわけですね。そうなって、政府は慌てて基準を変えなければいけないとか、海水浴に行くための暫定値を出してくれとか、こんな風な状況になってしまった問題というのは、どう捉えればいいのでしょうか。

武田:どれぐらい安全だったら、十分に安全なのかという言い方もありますよね。一度不安になり始めると、どれぐらい安全でも不安に感じてしまうのが、人間の心情にはありますから、非常に難しいですよね。今、社会全体が不安モードになっていますから、あらゆるものを、不安の目で見る、不信の目で見るという風になっていますよね。

工藤:昔、飛行機が落ちると、その後、飛行機に乗りたくなくなるじゃないですか。
武田:続けて起きるという神話みたいなものがありましたよね。

工藤:今回の問題はそれとは違いますか。かなり根深い不安というか、どう受け止めていますか。

武田:やはり、ある部分までは、科学的に言えるところもあるので、もう少し冷静になるべきだと思います。やはり、どこまで確かな危険があって、どこから先が確かに安全なのかということは、今、社会が非常にモヤモヤした状態にありますが、もう少し科学的アプローチはできると思いますし、するべきだと思うのですが、それをした後に、やはりグレーゾーンは残りますので、そこに対して、どういう風に対応していくかということを考えていく必要があると思います。


なぜ、立場によって放射能汚染の見方が異なるのか

工藤:確かに、今おっしゃったように、もう少し科学的アプローチの余地があるということなのですが、僕たちも、原子力や電力問題について議論していると、やはり完全に意見が分かれるのですね。エネルギーに関係している人は、原子力については100ミリシーベルトとかは、全然大丈夫、安全なのだと。でも、お医者さんの中にはもう1ミリシーベルトでも追加的なものがあると危険だということになってしまいます。なので、意見が完全にわかれてしまうのですね。これは、どう理解すればいいのでしょうか。

武田:安全側のバイアスと危険側のバイアスがかかっていくことを説明するような心理学的な理論もありますし、色々なところで、人間の気持ちも、持ちようみたいなものを説明をしていくような試みはされているので、不安に思ったら、そういうことも少し紐解いてみると、少しは安心できるかもしれませんね。ただ、さっきも言ったように、どうしてもわからない領域というのは、残ると思います。おっしゃるように、立場によって放射線の評価というのは全然違うことは間違いありません。その違いというものが、どういう立場だからこの人は、そういうことを言っているのかとか、そういう風に見ていくことによって、立場とある種紐付けされることによって、言説の内容をどれぐらい割り引いて聞けばいいかとか、どれぐらい割り増して聞けばいいかとかが分かってきますよね。例えば、そんなことも、放射線に対するある種のリテラシーになると思います。そういう細かいことを幾つも積み重ねながら、無駄に怖れないようにする。そして、正しく怖れるようにするという方向に向かっていくべきだとは思います。もちろん、絶対の正解があるわけではありません。かなり泥臭いやり方で、時間をかけて解決していくしかないと思います。


低線量のグレーゾーンをどう伝えるか

工藤:グレーの領域のところなのですが、放射線量がかなり大きい場合は、私も、東海村のドキュメントなどをかって見ていて、あそこまでくると鳥肌が立つぐらいの感じでした。ただ、放射線量が低い場合、その被害というのが、非常に不確実性があるじゃないですか。この問題をどう考えればいいかという問題です。不確実的な問題をどう判断して、評価し、そして報道していくのかという大きな問いかけがあると思うのですが、これをどう考えればいいのでしょうか。

武田:さっきも申しましたように、もし放射線だけ取り出すことができるのであれば、もちろん、それは不必要に浴びない方がいいのですよ。予防原則的にも、ゼロにしたほうがいいですよね。ただ、それだけで生きているわけではなくて、例えば、食べ物の放射線のレベルをどこまで許容しないと、福島の農家の人たちが困ったことになるというつながりですよね。そういうことを意識することによって、やはり自分はここまでリスクを受け止めようみたいな、そういう気持ち、自覚的に受け止めていくみたいな気持ちになっていくことによって、解決するというやり方は1つあるかもしれません。

これは、もちろん、こちらからリスクを受け止めろと言ったら暴力ですから、これは全然そういうつもりで言っているつもりはないのですが、やはり、社会全体のリスクを1つのところに蓄積させてしまうと、非常に大変なことになるわけです。それはある程度、広く薄く受け止めることによって、社会全体のリスクを減らすことができるのだ、ということを知ることによって、自分はどこまで許容できるのか、みたいな発想が出てくる。逆に言うと、それが、今までは無闇に不安に思っていたのだけど、そう思ってはいけないのだなという気持ちになっていく可能性もあると思うのですね。そういう形の解決も1つあるかなと思います。

工藤:そこの解決は、何となくわかるのだけど、ある意味で、覚悟がいりますよね。


確率的なリスクと確定的なリスク

武田:いりますね。例えば、放射線は怖いですよね。だから、原発を止めようと思いますよね。でも、電力が足りないから、例えば、水力発電にもう一度戻ろう、みたいなことになりますよね。すると、今度はダムができるわけです。すると、水没する人が出てきたりします。これは、間違いなく水没するのですね。放射線が怖いと言って、原発の事故がどれぐらいあるかというと、これは確率的なのですよね。確率的なリスクを怖がって、水没という確定的なリスクを人に与えてしまうということになることを、自分で選ぶべきなのかとか、そういうことを考えるべきだと思います。

工藤:つまり、不確実なものに対する判断によって、現実の被害が出ることもありますよ、ということですね。

武田:そういう風に、つながっているということですね。

工藤:この前、この放射線の比例関係の議論もしたのですが、海外の国際放射線防護委員会(ICRP)の方向は...。

武田:いわゆる、昔は、しきい値というのを考えていて、あるところまで下は大丈夫ではないかと言っていたのですが、一応、考えずに、少なければ少ない方がいいという考えた方がいいと。

工藤:大きければ大きいほど危ないと。

武田:そうですね。一応、そういう風に言ってきましたね。だから、予防原則側に振ったということだと思います。

工藤:振ったわけですよね、その感覚というのは、今、結構ありますよね。
武田:普通の人はそう思っていると思いますよ。

工藤:だから、例えば、自分の子どもは疎開させようとか、...どちらにしても、リスクを回避したいという状況になって、それに合わせて人が動いてしまいますよね。

武田:でも、それをすると、それができない人のところに、凄く重いリスクが乗ったりとか、現実的に不幸になったりしている場合もあるのですよ。だから、自分の行動、自分の選択、自分の行為が、社会的につながっていて、それがどういう影響を与えているかということまで考えた上で、行為するということが、私は大事だと思っています。そういうことをしていただきたいと思います。そういうことをすることによって、もちろん、予防原則的に考えれば、ゼロが一番いいのですが、みながゼロを求めるようだとちょっと社会的には持たないな、という気持ちになることによって、やっぱりあえてリスクをとる。それは、危険をとれと言っているわけではなくて、現実的な危険になる可能性は少ないのだけど、でも、それぐらいだったらあえて受けようみたいな気持ちになってくると、少しリスクが薄まってくる可能性がありますよね。そういうことの重要性については、少し考えてほしいと思います。


判断の基準点は、一番弱い人を守ること

工藤:今おっしゃっているようなことは、つまり、体力のある人などは、沖縄とか北海道に行って、移動している。

武田:移動できる人は、移動すればいいと思います。

工藤:でも、残された人たちがいらっしゃる。社会として、その人たちのことを、どう考えていけばいいかということですよね。

武田:私は、基本的には、一番弱い人を基準点にするべきではないかなと、愚直なまでに考えておりまして、そういう発想が必要ではないかという風に思っています。

工藤:なるほど。僕も武田さんの本を読んでいて、なるほどと思ったのですが、ただ、こういう考え方はダメなのでしょうか。お年寄りの人たちや、慢性疾患のある人は、体が弱くなったり、生活がちょっと変わることで、体調がおかしくなったりする。でも、その人たちを支える仕組みも社会にあり得ますよね。つまり、行政だけでなく市民社会において、例えば、移転しても、残っても、市民同士がそういう人たちを支え合うことによって、予防原則と組み合わせるというモデルはできないですかね。

武田:それができれば理想的ですよね。ただ、それができない時に、単に移動しろというのは、ちょっと暴力的なところがありますね。

工藤:その通りですね。今の政府の説明は、そういう感じが多いのですよ。こういう指定区域で、行動するのはあなたの責任でやってくれ。これは、かなり厳しい言い方じゃないですかね。


グレーゾーンの正しさ比べではいけない

武田:やはり、まさに不確実な現実を相手にして行動しているわけですから、それが正しいか、正しくないかはわからないのです。でも、どちらにしても、何らかのリスクを背負うことになるのであれば、それをちゃんとケアするべきできすよね。そういうことを前提にして行くべきであって、グレーゾーンのところで正しさを比較するわけではなく、闘うわけではなくて、グレーゾーンを回避して、その先にある現実の中で、どういう風にフォローできて、どういう風にケアできるかということをもっと重点化して、考えていくべきだと思います。

工藤:ちょっと難しい話ですが、こういう場合、メディアはどういう役割を果たすべきなのでしょうか。

武田:やはり、正しさ比べみたいなところに、陥りやすい罠みたいなものがあって。
工藤:なっていますよね、今、現実は。

武田:なっていますよね。それは、やはり、特に、低線量の放射線の場合には、答えは出ないと思いますので、あるいは、無理矢理に出すと、さっき言ったように、リスクが非常に重くなってしまうケースもあるので、そういう意味では、出すべきではないところもあると思いますし、そういう風に考えていくと、そこのところのレベルで、放射線が危ないか、危なくないかというレベルで、あまり無駄に時間を使うのはよくなくて、そうではなくて、例えば、危なかった時には補償するとか、そういうような形で、社会設計ができるような方向に、私は、メディアは世論形成をしていくべきではないかな、と思います。

工藤:確かに、僕も不思議だったのは、もっと早く、その地域の人たちの被曝の調査とか、そういう人たちをどうケアするかとか、色々なことが動いてもよかったですよね。

武田:同心円はマズイと思います。

工藤:でも、そういう真面目なことを言うと、ある人に言われたのですが、そんなことを言うと、風評被害を招いてしまう、と。。

武田:それも、一理あるのですよ。ですから、どちらもそれぞれに問題があって、もちろん、同心円での避難というのはマズイです。一方で、あまりに危険を強く言い過ぎてしまうと、避難しなくていいところまで、避難しなければいけなくなったりとか、あるいは、その場所の農作物が嫌がられたりすることもあるので、そこは、さっき言ったように、具体的な実証的なデータに基づいて、なるべく、正確な確定的なリスクみたいなものを割り出していくべきだと思いますし、そうじゃないところに関しては、さっき言ったように、危ないか、危なくないかの正解を探すのでは無くて、もちろん、危ないと思えば避難してもいいわけですし、そこは自由意思でいいとは思うのですが、その避難した先のケアとか、そういうことを考えていくべきだと思うし、避難しなかった人に対しても、ケアするべきですね。

工藤:確かに、そこの一番困っている人たちに対する政府のケアとか、後、メディア側の追跡というかケアも、何か足りないですよね。

武田:ですよね。本当に政府は問題だと思いますよ。で、メディアも、その場その場の報道しかしていないわけですよ。

工藤:一番危ないようなショッキングなところは報道するけど、そういうところにはなかなか目が向かない。

武田:避難した先でどうなっているのか、ということは全然やりませんわけですから、今を報道するだけではなくて、流れの中で報道していくべきだと思います。


政府は情報公開にネガティブではなかったか

工藤:政府の問題もかなりあると思います。SPEEDI(スピーディ)とか、初期の段階から、ある程度の情報、予測を出し渋っただけではなくて、僕も聞いていると、始めの段階では、原子力についてのサーベイ論文を読むデータベースそのものをつくろうとしていた人が、文科省からそこまでやらなくていいよとか、何か情報公開に対して、非常にネガティブな感じが見られたような気がしているのですが、どう思いますか。

武田:先程言った、作為責任、不作為責任みたいなことで、後から検証したときに、これはしょうがなかったと思うものもあるかもしれないし、やはり、犯罪的なレベルでの隠蔽ということもあったかもしれません。ただ、それはまだ確定していません。それは、これから検証していくべきだと思いますね。一方で、その辺りに関しては、ネットメディアみたいなものが、政府でコントロールされていない情報も専門家が出していたところはありましたから、そういうのをネットワークして、ちゃんと検証できるような科学リテラシーがネットメディア側にあれば、ネット側からもっと違う報道もできたと思います。みなさん焦ったのかもしれませんが、知識を積み重ねていかなかったですよね。


メディアは報道の検証も行うべき

工藤:そうですね。だから、メディア側の報道も、今は、ここまで明らかになっているけど、この問題は、今は明らかになっていないけど、いずれこれはみなさんに明らかにしますとか、それを色々な人たちも、メディアはそういうことをやっているのだ、と冷静に見られるような感じになればいいのですが、パニクってしまいましたからね。

武田:そうなのですよね。検証が全然ありませんでしたよね。やはり、有事、危機的な状況でしたから、検証する気分にならないとか、検証が難しいことは重々承知していますが、そこでもがんばって検証しないと、次がよくなっていかないですよね。

工藤:また少し休憩を挟みたいと思います。

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第3話「脱原発モード」下での報道はどうあるべきか

工藤:では、また議論を再開したいと思います。この原発問題を考える時に、私も経験したことがあるのですが、議論をしていると、反対派というのがいて、それから推進する人がいて、その中で、何となく、お互いが両極端になっていて、お互いが信じられないというか、別の村の人という感じがあって話がかみ合わない。武田さんの本の中でも、それが非常に不幸な状況になっていて、ある意味でリスクを拡大してきたということが書かれていました。僕も経済学で、囚人のジレンマということをやっていましたけど、その対立によるリスクが、今回の事故で、ここまで出てしまうと、どうなっていくのでしょうか。この状況は変わらないのでしょうか。変わっていくのでしょうか。

武田:今、推進の人はいないでしょうね。
工藤:いないでしょう。

武田:いたとしても、声は出せないでしょうね。今は、脱原発というのが主流です。昔の脱原発というのは、推進と反対の間にあって、ある意味で、徐々に原発から脱していこうみたいなところを言っていたのですが、今は、ほとんどの人が脱原発になっていまして、早い脱原発か、遅い脱原発かですよね。早い脱原発の人は、遅い人に対して、あれは推進と変わらないとか、隠れ推進だとか思っているわけです。そういう状況に、少し言葉遣いが変わっていった、というところがあるのではないでしょうか。

工藤:ただ、それにしても、今まで現実視されていなかった脱原発というものが、現実的なアジェンダとして出てくるというのは、想定されていなかったと思いますよね。

武田:でも、今、現実的なアジェンダとして出ていますかね。

工藤:つまり、現実的というのは、安全性の問題はあるのですが、黙っていたら54基が止まっていってしまうという可能性がある。次に、エネルギー基本計画を見直すということになった場合に、多分、新規をベースにした見直しになると、老朽化、廃炉というシナリオが見えてきますよね。こうした状況というのは、武田さんは、ずっと原発を考えてこられて、どのような事態だとお考えでしょうか。


脱原発は、それを可能とする手段の議論が大切

武田:確かに、新規立地はほとんどできなくなっていましたので、新しく原発サイトができるということはなかったのですが、既に原発がつくられ始めている中の増炉ということで、基本的に、政府は、必要とされる電力需要に応えられるような電力量を、原発でつくっていくといことを、本当に計画的にやってきたわけです。私は、昔、満州国の話を書いたことあって、今となっては、原発サイトの中は、満州国状態だと。国内植民地化していたと思うのですよね。それでずっとやってきたと。実際には、設計寿命が終わっても、それを延ばしてしまうとか、色々な手を使って、どんどん増やす一方で、減らす方向はこれまで一度もありませんでした。そういう意味で言うと、初めて、脱原発というものが、実際にシナリオになってきたように見えます。ただ、私は、そこで気をつけたいのは、特に、1970年代以降ですが、電源三法という交付金のシステムができていて、原発立地というのは、交付金を前提にして経済が構造化されているところがあるわけです。今となっては、不安の気持ちが勝っているので、多分、立地でも住民投票をすれば、脱原発になると思いますが、ただ、脱原発の後の経済的仕組みというのは、全然議論されていない状態だと思います。それがないと、そこの地域がいかに経済的に自立できるか、というシナリオがないと、実際に脱原発ができるかというと、やはり難しいと思うのですよ。何らかの形で風向きは変わってしまうと、元に戻ってしまう可能性があると思いますので、脱原発をするときの、現実にできるかどうかの手段の議論をちゃんとしないといけないと思っていて、その現実的に脱原発ができるかどうかということの検証をしながら、脱原発論を言っていかないと、あっという間に世論の風向きが変わってしまって、元の木阿弥になってしまうという一番不毛な結果になる可能性があると思っています。そうしないためにも、脱原発を現実のものにしていくための手段の議論ということを期待したいと思います。

工藤:確かに、さっきの話ではないのですが、原発事故で、ショッキングなことだけを追いかけて、避難された人のケアに関しては、なかなか目が行き届かないというメディアの状況があります。一方で、確かに、原発を止めるとなると、今まで、原発に依存していた地域とか、それに代わるものをどうしていくのかとか、これまで構造化してしまっているシステムを変えるくらい、の継続的な議論が必要です。。

武田:考えていかないといけないと思います。そうなると、ある程度の原則というか、ゆっくり徐々に現実的なところをつくりながら、やっていかないといけないと思うので、直ちに脱原発ということは難しいとは思うのです。それを求めると、かえって脱原発ができない可能性があると思うので、本当に脱原発がしたいのならば、その目的を実現するための手段をちゃんと議論してほしいと思います。そのための時間は必要だと思います。

工藤:そうですよね。私も冷静な議論をしたいと思って、何回もやっているのですよ。で、電力の問題とか、再生可能エネルギーをどうしていくかとか、時間軸の議論とか。だけど、今まで原発に反対していた人たちは、国民的な議論の大きなチャンスなのに、まだ昔のようにまず反対が先にあり、冷静な議論になれない。彼等からすればチャンスなのに、冷静になればいいと思うのですが。


二項対立ではなく、国民に広がる議論を

武田:おっしゃる通りだと思いますね。やはり、焦る気持ちもわからないではなくて、原発推進は強力な国策だったわけですよ。だから、反原発運動家がいかに運動しても、全然変えることができなかった。その非常に強力な国策が、今、ちょっと緩んでいるわけですから、チャンスだという風に思うのは当たり前だし、そこでなるべく亀裂を大きくしておきたいと思うのは、それは自然だと思います。ただ、さっき言ったように、本当に脱原発をしたいのならば、やはり通っておくべき手続き、やらなければいけないことがあると思うので、そちらの方にも視野を向けないと、本当に脱原発をしたかったのに、やっぱりできなったみたいなことになる可能性もあると思うのですよ。

工藤:それが形を変えた二項対立になってしまう可能性があるわけですね。だから、反対派、賛成派ではなくて、今、市民とか国民レベルがこの問題を考え始めている時だからこそ、冷静に、しかも...。

武田:そこで、やはり二項対立にしてはいけないと思いますね。

工藤:さっきの放射線の汚染の問題と同じなのですが、原発の安全性の確認ということですが、ストレステストも含めて、どうしたら安全だという風になるのか。ここにも大きな問題があるのですが、この辺りはどのようにお考えでしょうか。

武田:私は、ストレステストはやるべきだと思っています。私は、本の中にも書きましたが、ご紹介いただいたい本の1つ前の本ですが、日本の原子力に対して、一回句読点を打ってみる、一度止まってみる必要があると思っています。そのために、ストレステストというのは、やるべきだと思います。結果的にある程度の炉が動かせなくなることは、それはしょうがないと思っています。もちろんテストのやりかたは考えなくてはいけなくて、いかに安全かということをちゃんと議論していかないといけないと思います。そこは、安全か安全で無いかという話も、低放射線のグレーゾーンのものとちょっと近い議論になりがちであって、やはり、論者によってかなり変わってくるわけですね。その辺りをどのように処理するかという話は、凄く問われるところがあって。

工藤:ただ、この安全性の問題も、これはある意味ではチャンスというか、日本が安全という大きなモデルを提起できる、世界的にも非常にいい意味がありますよね。

武田:原子力の場合には、発電と核兵器の間の連続性というのがあって、核武装国というのは、核放棄と同じことになりますから、原子炉は少なくとも放棄できないわけです。でも、日本の場合は、核武装はもちろんしていないわけですから、そういう状況がある国で、原発をどういう風に考えるかという話ですよね。やはり、エネルギー源の問題で、電力需要を節電などでどこまで減らせるか。あるいは、再生可能エネルギーでどこまで補えるのかみたいなことを、ちゃんと考えながら、バランスのいいポイントを見つけていくということについて、国民的な議論をしていくべきだと思います。でも、そこにも手段の議論ということは絶対に必要で、一方で、再生可能エネルギーに対して、あまり無垢な期待を持つということも、よくないと思っています。その辺りも、再生可能エネルギーにシフトしたいのであれば、どういう現実的な手段が必要かというところを、議論していったほうがいいと思います。

工藤:その安全性の問題なのですが、福島原発を見ていて、東電の発表は津波によって外部電源が損傷しているという議論ですが、耐震性とか地震によって損傷はなかったのか、という問題に関して、結論は出ていないわけですよね。

武田:最初はなさそうでしたけど、やはりあったような感じですね。

工藤:そういう感じがしますよね。そうなってくると、安全性ということに関しては、ストレステスト以前に、耐震構造のチェックということを、まずやればいいのではないですか。


どうやって安全性の確認を行うべきか

武田:例えば、浜岡原発の新しい炉などは地震の加速度に対して、安全性を大きく見て設計しましたよね。そういうことはやはりやっておくべきだと思います。ただ、揺れの方向とか、波の形状の問題だとか、強振したりするわけですから、やはり絶対安全というのはあり得ないと思うのですね。多重防護という考え方を電力会社がやってきて、今回の震災で多重防護は呆気なく破られてしまいましたけど、そういうことをちゃんと反省して、どういう形で多重防護をしていけば、1つ破られても他で守られるような設計になるかとか、そういうことを組み合わせたり、本当に地道にやっていくことよって、ちょっとずつ安全性を上げていくことしかできないのだと思います。そういうことすら、今まではできなかったのが私の言っている囚人のジレンマ問題であって、電力会社は絶対に安全と言ってしまった以上は、もうこれが安全なのだと、これ以上のことはないのだという風に、安全策をとれなかったのですね。そういうバカなことはしないで、安全にできる余地があるのであれば、今までは結構安全に考えたのだけれど、更に安全にできるようになったので、もっとこういうことをやっていくみたいなことを、安全性のほうに向けて、ちゃんと踏み出せるようなそういう原発にしていく必要があると思います。

工藤:そうですよね。だからこそ、個別のそれぞれの問題で、きめ細かくやっていくことによって、ここは当面安全だというような方が、いいような気がしますよね。EUのストレステストをやって、再稼働という判断をどうしていくかということに、ちょっと言い訳じみているようなことを感じてしまいます。

武田:私が先程、ストレステストをやったほうがいいと言ったのは、ああいうことをやったほうがいいという話であって、その内容がどういうものかについては、議論するべきだと思います。

工藤:あと、武田さんにぜひ聞きたかったのは、日本は、原爆を落とされた中で、戦後、原子力の平和利用という形で熱狂し、その中で、あるメディアが動いたり、色々な形で、1つの流れを作ってきたわけですよね。今回の問題は、こういう原発が当たり前の、戦後の構造そのものの変化が問われている、と思うのですが、どう考えていますか。さっきの、核兵器の問題もあるのですが。


原発が当たり前の、戦後構造の変化が問われている

武田:そういう話も、今まで全然されてこなかったわけですよね。私は、日本の原子力事業の歴史を書いた本が、1つ前にありますけど、今回、増補版で出せました。それは、事故があったから出せたのであって、その前に単行本で出したものは売れなくて絶版、文庫本にしましたけど、それも売れなくてほとんど絶版に近い状態になっています。ただその存在は知られていたので、今回の事故があってから、Amazonの古本の値段が高騰するような状況になっていたわけです。要するに、ここでは売れなかったということをあえて強調したいのですが、多くの人たちは、原発について関心も問題意識を持っていなかったですよね。それは、原発がある国で生きているのであれば、やはりもう少し原発とはどういうものかとか、技術的にどういう文脈にあるかとか、それはやはり知っておかなければいけませんよね。

工藤:だから、今まで、何となく当たり前だと思っていたけど、見て見ぬ振りをしていたものを、考えなければいけなくなったということですね。

武田:例えば、チームマイナス6%みたいなエココンシャスな政策が出てくると、みんな賛成するわけですよね。でも、あの時点は、再生可能エネルギーなんて、ほとんど扱えなかったわけですから、あの時は、明らかに原発の稼働が前提ですよね。それから、民主党だって原発推進政党ですから。

工藤:そうですよね。一気に菅さんの発言も変わりましたけど。

武田:だから、民主党に投票したということ自体が、原発を選んだという自覚を、実は持つべきだったのだけど、そんなことは、全く論点かされていませんでしたよね。

工藤:私たちのNPOがやっていることなのですが、原発だけではなくて、財政破綻も民主主義もそうなのですが、当たり前と思われていたことがかなり壊れていて、その先に危機が迫っているのだけど、今まで、ずっと見て見ぬ振りをするということが、メディアも含めてずっとあった。今回、危機があったから考えるという構造。


危機が起こる前にこそ議論は始まるべき

武田:でも、本当はダメなのですけどね。危機が無くても考えなければダメなのですからね。

工藤:そうですよね。それがまさに、良識であり、メディアの役割でもあるのだけど、何か危機が起こってから慌てて議論が始まるというこの流れは変えなければいけないですよね。メディアもそういうことを変える、事前に冷静に考えるということの行動はとれないのでしょうか。何かの時だけ、ぽっと騒ぐのですが。

武田:難しいですね。やはり、したたたかに言論戦みたいなものをやっていくような力を持っていて、そういうことを続けようと思っている、気概を持っているようなライターが増えるべきだと思うのですよ。私も、過去に単行本にしたような企画、たとえば核とかハンセン病の企画を雑誌に持ち込むと、そんなのは古いと言って受けてくれないとか、誰もそんな問題意識を持っていないとかいうことがありました。でも、私は現代的な価値があるテーマだと思っているからやろうと思っているわけです。でも、受けてくれないわけですから、受けてくれそうな媒体を探すわけです。それで、原発に対して批判的なことを書くようなことを、原発に対して批判的なメディアに持って行っても意外にダメで、むしろ推進派だと言われているような媒体で書かせてくれたりするわけですよ。そういうある種の緩みを見つけていくみたいに、本当に伝えるべきことがあるのであれば、それを伝えるために、色々戦略的に、動かなければいけないのだと思います。

それは、今時点の関心の濃淡では測れないと思います。実は、関心のないところに非常に重要な問題がある場合がありますから、そこにスポットを当てていけるようなことをしなければダメですね。人気投票以外の尺度で動かないといけない。それはマスメディアには非常に難しいです。


メディアを選ぶ市民の覚悟こそ最も大事

工藤:するとメディアの問題も、かなり大きな変化がメディア自身に問われるだろうし、一方で、それを選ぶ市民も重要ですよね。それを受入れる側がいないと、緊張感がでてきませんものね。そういう意味では、日本の社会が問われているのではないかと思います。

武田:本当にそうだと思います。嫌な言い方ですけど、民度が問われていると思います。

工藤:ということで、話は尽きないのですが、時間になってしまいました。武田さんの本は、非常にいい本でして、「原発報道とメディア」ということで、僕も読みました。やはり、今まで当たり前だと思われている問題、それから、伝えるということが当たり前だと思われている問題も含めて、色々な考える視点を提供している本だと思いますので、ぜひ、読んでいただければと思います。武田さん、今日はどうもありがとうございました。

武田:ありがとうございました。

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 7月22日、言論NPOは、言論スタジオにてジャーナリストの武田徹氏をゲストにお迎えし、「原発報道とメディア」をテーマに対談を行いました。

2011年7月22(金)収録
出演者:
武田徹氏(ジャーナリスト)

司会者:
工藤泰志(言論NPO代表)


第1話 日本のメディアの原発報道をどう評価するか

工藤:こんばんは。言論NPO代表の工藤泰志です。さて、言論NPOでは、3月11日の東日本大震災以降、「言論スタジオ」と題して、様々な議論を行っています。今夜は、少し形式を変えて、対談方式で「原発報道とメディアの役割」ということについて、議論したいと思います。ゲストは、ジャーナリストで大学でもメディア社会学を教えていらっしゃる武田徹さんです。武田さん、今日はよろしくお願いします。

武田:よろしくお願いします



工藤:実は、「原発報道とメディア」というのは、武田さんが6月初めに出された著書のタイトルでもあります。ただ、私自身も非常に関心のあるテーマで、ぜひ対談を、ということで、今日の対談が実現しました。原発の存在について、これまで意識的にその存在を、考えないようにしてきたのか、忘れているような状況だったのですが、3.11を境に、危険な存在であるということを改めて思い知らされました。原発を巡った報道というのが、膨大な量で色々な形で出されて、私も戸惑うことがかなりあったのですが、多分、こういう報道を契機に、私たちが考えなければいけない問題について、改めて考える機会になったのではないかという風に思っているわけです。

そういう点で、原発報道を通じたメディアの役割というところまで、今日は話を進めていければと思っております。

さて、早速、武田さんにお聞きしたいのですが、この震災、原発事故以降、報道はきちんと真実を伝える努力がなされていたのか、あるいはしていたのか、その辺りについてどう総括されていますか。


真実は伝える努力はしたが、適わなかった

武田:そういう文脈で言うと、真実を伝える努力をしたけどかなわなかった、という言い方が一番いいのではないかと思います。その場合の報道というのは、マスメディア報道もそうだし、ネットメディアもそうだったのではないかと思っています。

工藤:それは、どうしてですか。もう少し詳しく教えてください。

武田:それぞれに、自分の手の届く範囲で事実を確認しようとした。ネット上ではマスメディアは情報を隠蔽しているとか、色々と言われていますが、そういうことがもしあるのだとしたら、今後出てくるかもしれないとも私は思っています。それは、検証を待ちたいと思っていますが、その話を置いておいて、マスメディアの中にも、ちゃんと取材をしている人が間違いなくいて、その人たちは真実を伝えようとして、努力をしていたと思っています。ただ、原子力関係の報道には、独特の難しさというものがあって、やはりあのような事故になってしまうと、サイトの中は防護服がなければ近づけないような状況です。実際に、マスメディアが自前の取材ができたかというと、それはできないわけです。

それで、東電や政府なりの発表からそれを解説するというところから、報道を始めざるを得なかった。それは、マスメディアの限界であって、そのレベルの中で真実を求めようとしても、やはり届く範囲、リーチできる範囲には限界があります。そういう問題が、マスメディア側にはあったと思います。

一方で、ネットメディア側というのは、自前の取材力があったかというと、ガイガーカウンター等を持つ人は増えてゆきましたけれど、正確に使えていたかどうかとか、あるいは、ガイガーカウンターの数値の意味をどういう風に解釈するかとか、そういうことは、かなり難しいレベルの話でありまして、そういうところまで含めて、うまくいったかというと、まだまだだったと思います。もちろん努力はされているし、凄く誠実に作業されたことに対しては、私は本当に敬意を持っていますが、マスメディアも、ネットメディアを通じて発信する市民ジャーナリストも、それぞれに弱さみたいなものが見えてきたというのが、現状ではないかなと思っています。

工藤:確かに、メディア報道を見ると、記者会見をベースにしてやらざるを得ない状況があったのですが、政府なり東電を含めて、発表の仕方そのものが後手に回ってしまった。当日、ある程度の状況証拠から、専門家から見れば、こういう事になっているのではないかとの観測はできたのですが、数ヶ月ぐらい経ってから、初日から燃料棒が露出して、炉心溶融が起こっていて、下に落ちて「メルトダウン」しているという、かなり大変な事態が、「後から分かった」という状況になりました。


「メルトダウン」の言葉はなぜ後から使われたか。

武田:その辺について、私は、単純化しないほうがいいと思っています。私は、震災当日海外にいました。情報的にはかなり制限されていましたが、海外にいてアクセスできる情報の中で、冷却水を失って、かなりの時間、空焚きの状態であったと聞いたときに、崩壊熱の熱量を考えれば、おそらく燃料棒はもうそれまでのかたちをなしていないだろう、ということは分かりましたよね。それは、ある程度、原子力発電のメカニズムを知っている人であれば、間違いなく想像できたレベルの話だと思っています。ですので、「後からわかった」というのは、ちょっと微妙な言い方だなと思っています。しかし、それを「メルトダウン」と言わなかったのは間違いなくて、そこに関しての議論は必要だと思うのですが、ここもやはり、隠した云々とは違う視点で議論も必要だと思っています。

要するに、「メルトダウン」という言葉が、ある種、強く刺激する言葉であるが故に、使えなかったというか、使いにくかったということは間違いなくあると思います。だからといって、使わなくていいのかということは、また別の問題です。ただ一般論として考えたときに、その言葉が使いにくかったことは間違いなくあって、もしかしたら、そのことを考えたという可能性も無いわけではないと思います。そんな可能性がある以上、何で使えなかったか、ということを考えるべきだと思っていて、例えば、東京の浄水場で、放射線量が発見されたときに、大人が飲料するには、ほとんど問題がない状況だったにもかかわらず、ペットボトルを、あんなにも買い占めるわけですよね。そういうような国民が背景にいるときに、「メルトダウン」という言葉を使えたか、という風に思うと、もし使っていたら、私は、都市機能が崩壊するようなかなりのパニックになったのではないか、と思っています。

もし、そういう風に想像できた時に、その言葉を使うか使わないかということについて、報道する側はかなり責任感を持って選ばなければいけないことだと思うので、もしその辺りの判断をしたのだとすれば、単に遅らせただけではないようなニュアンスがあったのかもしれません。ただ、それについては、ちゃんと検証するべきだと思っています。

工藤:今の話は、メディアが自覚的に報道しているのであれば成り立つのだけど、知らないかもしれませんよね。

武田:私は、単純化が一番危険だと思っていて、メディアの方もさっき言ったように、崩壊熱がどれぐらいかということについて、分かっている人がどれぐらいいたか、ということは、まず問題としてあります。原子力の知識を持っている記者が、どれぐらいの数、今の報道機関の中にいたか。報道で原子力の知識が必要とされたのは、ある意味で、東海村の臨界事故が最後の出番だったわけでありまして、それから10年以上経っているわけですから、おそらく現場で動く人の中には、放射線に関する知識を必要に応じて、仕入れてきたような経験がない人が多かったのではないかと思っています。だとすれば、そこの問題点があって、もしかしたら知識の不足によって、伝えられなかったということはあります。その可能性はもちろんあります。一方で、知っている人がいた時に、彼らがわかっていたけど表現で配慮したという、そういう仮説を立てられないわけではないので、その辺りは、メディアの現場の知識量がどうだったか、それは個々のメディアによって問われるべきであって、マスメディア全体という風に大きく括ってしまうと、見えるものも見えなくなってしまうと思います。


政府説明に対する「作為責任」と「無作為責任」

工藤:その話の以前に、政府がその状況をきちんと判断していたのか、ということもありますよね。それが無かったら、全然、何もわからない状況で慌ててしまうことになります。

武田:おっしゃる通りだと認めた上で、あえて分析的に話してみると、何か情報を提供する場合には、作為責任が問われる場合と、不作為責任が問われる場合というのがあって、たとえば危険を報道することの作為によって、何らかのある種の報道被害的なものが出てくる、あるいは、政府の場合も、発表することによって、その発表によって被害が生じる場合、作為責任が問われる場合がありますよね。一方で、報道しない、発表しないことによる不作為責任が問われる場合があります。わかっていたのに伝えなかっただろうと。

工藤:日本からの待避を伝えたフランスが作為ですね。

武田:フランスと日本の場合は、ある種、向き合った関係になると思います。でたとえばその生活から離れるということは、ある種のリスク源になる可能性があるので、危険を伝えて避難を求めことにはる作為責任が重く問われる。危険だと言ってしまうことによって、逃げてしまって、今の生活ができなくなってしまうという問題がありますよね。

工藤:ありますよね。だから、本来、政策決定の人たちは、そういうことも判断して、その場合は、統治とかガバナンスがかなり効いているということが前提ですよね。

武田:前提ですよね。でも、その前提がどうかはわかりませんよね、それは。

工藤:分からない可能性が強いような気がしています。そうなってくると、それがかなり不安を煽って、メディア報道もそこに引きずられてしまうという問題もありますよね。

武田:ただ、分からないところからしか始めざるを得ないところがあって、確定的ではないのですね。そこが、少しやっかいかな、と思っています。

工藤:後から本質的な議論に入るので、まず、周辺の話をもう少し伺いたいのですが、最終的にメルトダウンが起こって、燃料棒が下に落ちていっているという状況がありました。あの時に、ひょっとしたら水蒸気爆発となる危険性があった。それこそ今だから、言える、という話かもしれませんが、そうだとすれば。よく、大丈夫だったなと。


震災当日のリスクをメディアは理解していたか

武田:可能性はあったと思いますよ。ただ、炉の温度については、センサーは始めの頃はかなり生きていたので、それを見る限りは、水蒸気爆発までゆくかな、という感じはしました。もちろん、ゼロではないと思いましたが、炉の中の圧とか、温度を見ている限りは、何とかなるかな、という期待をしながら、私は見ていました。もちろん、そこでも、非常に大きなリスクがあることは認めていましたし、そのリスクが現実化する可能性もあるとは思っていましたが、その先は、さきほどの作為責任、不作為責任みたいな話になると思います。私、大学で教えていたりしますので、一番近くにいて、守らなければいけない立場の人のことを考えたときに、たとえば東京の自分の学生のことを考えますよね。もう逃げろというべきか、もう少し様子を見ろというべきか。炉の温度とか圧を見たときには、私は、今の段階ならまだ大丈夫だという風にあえて言いました。それは、確定的な事実を言っているつもりはなかったです。ただ、そういう風に言う方に賭けるというか、その時点でどちらを言うにしても、賭けだと思うのですね。でも、その賭けが当たったときにどうか、はずれたときにどうか、という風に考えた上で、賭けているというレベルの話ですよね。

工藤:そこで、さっきの作為か不作為か。フランスはメールを流して、国外に出たらどうとか、80キロ圏は離れろ、とかいう議論がありました。だから、これについては、まだまだ解明しなければいけない問題があるけど。

武田:そうですね。遡って議論しなければいけないと思います。

工藤:ただ、今回は、かなり危うい判断が問われる局面だったわけですよね。

武田:臨界爆発に関しては...
工藤:それは間違いだということですよね。

武田:これは可能性はゼロではなかったと思いますが、水蒸気爆発の危険よりもかなり少ないと思います。で、何でその話が出ないのか、というところはよくわからないのですが、軽水炉の燃料の濃縮率で言えば、臨界はしにくいというのが、ある種物理的な法則性にありますから、確率的には低いことは間違いありません。では炉の構造が壊れたときにどうなるのかというのは、大抵は壊れれば、安全側に振れるのですが、壊れたときに、むしろ危険な状況が瞬間的にできて、臨界する場合もありますから、可能性としてはもちろんゼロではありません。ただ、新聞や夕刊紙などで書かれていたのは、ちょっとリスクを多く見積もり過ぎている感じはしました。ちょっと、ためにする報道のような気がしました。それに臨界ということが全然わかっていない原子力に関する知識がないにもかかわらず、臨界ということを書くのはなぜ、みたいなところは気になりました。本人達が、臨界のメカニズムを分かっているわけではないのに、こんなに大きな見出しで書くというのは、ちょっと無責任かなという気はしました。そこは、私は嫌でしたね。

工藤:それはそうですよね。メディア報道で、放射能がやってくるとかね、防護マスクを表紙に使った「アエラ」もあります。ああいうのも、違和感を感じます。

武田:でも、実は間違ってはいなかったというか、そこが厄介なのですが。ですから、この問題は、凄く難しいのですね。後で話がでるかもしれませんが、放射線だけを考えれば、人工的な放射線は当たらない方がいいのですよ。そこだけ考えられれば間違いはないのだけど、人間の周りにあるリスクというのは放射線だけではないので、その時にどう考えるかという話ですよね。

工藤:そこはまた、難しい問題がありますね。ここで、一度休憩を挟んで、次に続けたいと思います。

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 7月22日、言論NPOは、言論スタジオにてジャーナリストの武田徹氏をゲストにお迎えし、「原発報道とメディア」をテーマに対談を行いました。

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